「現象学・実存主義」の原理を取り入れています。
パールズ(ゲシュタルトの創始者)が「ゲシュタルトは実存主義セラピーである」とものべているほどです。
実存主義とは、個人のユニークな存在は、
個人の独自な経験によって成り立っていると主張する哲学です。
人の存在の本質は、
どこか見えない高尚なところにあるのではありません。
「あなた」は人として生きるために
「無の経験」や「死の恐怖」に直面する人間です。
「あなた」は人として生きるために、
「孤独」を感じ、それを受け入れていく存在なのです。
このように人はまず実存することが何よりも大切なのです。
そして死と孤独を本当に感じたときに、
「あなた」は生きるために
「自分の行動を責任をもって選択」することができます。
かつてポーラ・バトム女史は、実存主義を説明するときに、
次のように語っています。
・・・「私たちは自分の死の恐怖や孤独感、無の経験に悩まされます
(郁→「無の経験」とは、虚無のことを言っているのかな?と思いました)。
そのとき、それから逃げるのではなく、
それを十分に「経験する」ことです。
死の不安や、孤独感を、
見えないように心の隅に追いやろうとしたり、
コントロールするのではなく、
全面的に受け入れてください。
そして、私という存在が、
「死と孤独」への不安を持っていることに気づいたときに初めて、
そのことを乗り越えるために自分はどのような生き方をしたいのか
「選択すること」ができるようになるのです。
もし、あなたがそのような死の不安や孤独感、無に気づかなければ、
選択はできないのです。
実存主義とは、気づき、そして選択できるという立場を取っています。
そして選択することができるということが、
「自由」ということの本当の意味なのです。
実存主義の「実存は本質に先立つ」というテーゼの意味は、このことでもあります。
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ゲシュタルト療法のこのような姿勢が、
私はとても好ましく気に入っています。
自分自身に選択の余地がなければ、
神や運命や何か自分以外のものに、
翻弄されているような気がするではないですか。
また、自分自身を否定して、外にある理想や思想にスポットを当てて、
実存している自分より、理想や思想が力を持ってしまうと、
自分自身が力(パワー)を失ってしまうではないか・・・と。
そのような気付きをこの文章からいただきました。
私たちは、自分で気づけて、自分で選択できる生き物です。
ただ、気づけていないがために、選択できていないだけなのです。
その理由は、
先程のボトム女史の言葉の通り、
「自分のなかにある感情を、
見たくないものを見ないようにしている、
感じたくないものを感じないでいいようにしている」こと故に、
気付きが起こらず、選択ができないのです。
深く「感じる」と、
感じたあとは自動的に「気づき」が起こります。
気付きが起こると、「じゃあ、どうしたらいいか」という選択が、
私たちにはできるのです。
そういえば、
「私は一人で心のなかで、これをずっとやってきてたな・・・」
って気づきました。
自分の人生が大きく変わった5年前、
実は自分のなかで「ゲシュタルト」が起こっていて、
統合されていたのだと。
だから、
「自己否定、自分を粗末にする生き方」
から、
「自分を愛して、大切にする生き方」
に、自分で選択を変えて、人生の方向を変えれたのだと。
そして、「人間とはいずれ死ぬし、元々孤独なものである」という真実に直面すれば、
自分の中でぬぐいされない虚しい気持ちや、寂しい気持ちも、
あっていいのだと。
認められた時に、とっても楽になりました。
「あってはならない」と、その気持ちと戦っていた時は、
本当に苦しかったなぁ。
だって、ありのままの自分を否定していて、
「それがない自分」を目指していたわけだから。
「あっていい。それと共に生きる。」
「いつかなくなるかもしれないし、なくならないかもしれない」
「それでも、それでいい。だって、それが私の一部なんだもの」
そう思えた時に、とても暖かい気持ちになれました。